diary 2003.07



■2003.07.17 木

 周りに何も無い野原の真ん中に放り出され、進むべき大まかな方向だけを示される。遠くに見えるあの山並み。そこを目指しつつ、後続が迷わないように道なりレールなりを整備しろ、と、例えていうなら最初に受けた指示とはそういうものだった。
 で、職場で自分が所属している今の部門に、立ち上がりから配属されて2年と数ヶ月。スタートから2年間で仕事の流れを確立させ、3年目に以降の業務の規範となる「処理規則」を明文化する、というのが、自分を含めたこの部門の立ち上げ要員に、当初課された役割だったのだけれど、その「明文化」する作業が先日片付いた。
 今の職場に配属されてからずっと目標だった一点を、ついに超えたのだ。以降はこの「処理規則」が、ここの業務を進める上での規範となる。やがて状況が変わって、今の仕事のやり方が現状にそぐわなくなって、見直しを迫られる、その時まで。

 そうして自分(達)は、当初の目標に達した。でも、それは同時に。この職場における自分の役割…自分に期待されていたもの…が終了した、という、そういう事でもある。「これを終えない限りここからは出さないよ」と、上からは良く言われていた。でも、それが終ってしまったのだから、自分はもう、次に引き継げる時期に来たのだろう。

 目標としていたある地点に達した瞬間、その「次」というものが判らなくなくなってしまう。そういう事がよくある。いやまぁ、仕事上の「次」というのは否応なしにやって来るのだけど、本当に判らないのは、仕事上の「次」と密接に結びついた、普段生活してゆく上での「次」…のことだ。
 今のところその「次」について自分が判っていることは、またこの職場を離れて違う職場に行くのだ、ということ。自分の場合、職場が変わる、ということは住む街も変わる、ということになる。そしてその決定には、自分の意志と他人の意思とか、微妙な力加減で、複雑に絡み合うことになる。

 自分が定めていたひとつの区切りを超えて、改めて思うのだ。
 来年の今頃、自分はどこでどういった生活をしているのだろう、と。
 それが自分にはまだよく判らない。来年の今頃…だなんて、そんな先のことなど。
 判らないから、来年の今頃、という期間がえらく遠いものに感じられる。そういう時期に、今の自分は再び差し掛かっているような気がする。


 とにかく、日記の空白の間に、仕事上ではそうした区切りがあった。
 仕事上での区切りといえばもうひとつ。これまで欠員となっていて自分が掛け持ちしていた上位ポストへ昇任していた。ただ、元々掛け持ちしていたところへの昇任。自分がスライドした、というだけ。欠員もそのままなので、仕事の内容は何も変わらない。ふう。
 でも、時期的には中途半端で予想外の昇任だったけれど、夏のボーナスに間に合う形で給料が上ったのは嬉しい。


■2003.07.28 金

 月はそれぞれ違うのだけど、自分と母と姉と3人共誕生日が28日なので、今日が28日だということに思い至った時、ふとその中の誰かの誕生日を忘れていたような気がしてドキッとした。
 その母から、自分の携帯電話にメールが届く。来月頭から両親と姉とで一週間、道東旅行へ行って来る、と。実家の不在を知らせるメール。母親と姉貴とが一週間も一緒に旅行、なんて何年ぶりの事なのだろう。以前はずっと仲違いしていた母娘。その当時の事を思うと、今こうある事が信じられない。

 メールが届いたのは夕方。スーツ姿で大通公園を歩いていた時だった。職場のちょっとかしこまった送別会が開かれるので、そこに向かう途中。スーツ姿で街の中心部のこの辺りを歩く事はまず無い事で、自分がまるで都会のサラリーマンのように思えて何となく違和感、のようなもの、があった。
 しかしこの季節だというのに、しっかりと背広の上着を着て歩いている人が多い。自分もだ。それほどに今年の夏は涼しい。去年に引き続き冷夏になっている。そういえば今夏まだ、真夏日という言葉を聞いた気がしない。昨日は一応泳ぐ事が目的で海へ行ってきたけれど、気温はともかく水温は冷たくて、殆ど海には入らなかった。せいぜい膝まで浸かって、岩場の「棘皮動物」やら「軟体動物」やらを捕まえて遊んでいたくらいだった。
 長期予報でも、今年の夏に夏らしさは望めないという。夏はやはり夏らしさに惹かれる。陽射しに熱気に蝉の声。あと丸4ヶ月も経てば、この土地の季節は冬になっているのだ。

 上層である決定がなされ、大きな仕事になりそうなひとつのヤマが本格的に動き始めた。決定される以前に自分達末端はもう既にそれがある事を予測して、この時期にその決定がなされた場合にその準備で最も忙しくなるであろう8月半ば、つまり例年なら盆の長期休暇を取るあたりに、休暇返上の手厚い勤務体制を予定していた。そのため、盆の帰省や長期休暇中の旅行など、そういった計画を返上、延期してそれに備えていた者は多い。
 次の仕事の性格上、それは決められたらすぐに取り掛かり、一刻も早く成すべき事だろう。現場サイドはそう思っていたからこそ、そういう業務予定を立てていたのだ。でも、実際にそれが行われるのは秋以降になる、という。どうもこの仕事の意思決定をするところ…自分とはずっと離れたところにある…の人々の考える事は判らない。良く判らない理由で、どうせやるなら急いでやらなれければならない事を、先延ばしにしてしまう。何と言うのだろう。必要より思惑を優先している…のだ。

 結局こちらの予想に反し、それほど急ぐ必要も無くなり、予定を空白にしていたところに休暇が戻ってきそうな雰囲気になっている。でもまだ先を見通すことはできない、長期計画は立てられない、身動きは取れない。そして落ち着かない状態が続いている。
 …要するに、振り回されているのか。


■2003.08.10 日

 明日から1週間、夏期休暇となる…のだが。
 昨夜から未明にかけて日高地方を襲った豪雨により、同地方で米作農業を営んでいる父方の実家が相当の被害を受けた。幸い人と母屋に損害は無かったのだが、土砂崩れにより農機具を収納している納屋を一棟喪失し、その納屋と共に流出した大量の土砂に、唯一の生活道路を埋められている状況。また、田へ引水している川の氾濫により、水田も水に浸かってしまったという。稲が水を被ったことによる収穫への影響と、納屋と共に流出した農機具類の損害がどのくらいになるのかは、自分には想像がつかない。
 親父が今朝からそちらに向かい、現地と協力して作業にあたっている。でも、途中の道路もあちこちで寸断されたり何だりで、はかどらなかったようだ。で、夜に連絡が取れた際に、「行こうか?」と言ったら「来い」とのこと。休み中にはそちらへの墓参りにもどうせ行くことにはなっていたけれど、まさかこんな形で先行することになるとは。
 ニュースで知る限り、同地方の被害はかなりひどい。死者も不明者も出ているし、JRも橋脚が流出したとか何とかで寸断されている。国道も何箇所かで通行止めになっている。辿り付けるのか。まぁ、親父が現地に到着しているのだから、行くことはできるのだろう。ただ、とにかく混乱しているので、詳しい状況は明日行ってみないと判らない。


■2003.08.15 金

 この規模の水害は20年に一度だという。しかもその20年に一度の水害の中でも今回が最も酷い、と。そう土地の人達は言う。今になってようやくその被害規模が明らかになってきているが、今回の豪雨で日高地方の農産、畜産、馬産業者受けた損害は、報道されている以上に甚大なものだ。
 そんな日高から今夜ようやく帰宅した。父方の実家の実際の状況も、当初の話から自分が想像していたよりも遥かに酷いものだった。納屋は普通の2階建て一戸住宅ほどのサイズのものが一棟、後背の山の崖崩れによる土砂に押されるかたちで手前の道路まで流出し、道路を塞ぐ形で倒壊していた。隣接したもう一棟の納屋も崩壊していたが、そちらは道路手前で停まっていた。そして、崩落した土砂の圧力で道路までがゆがんでいた。
 自分が着いた時には、それまでの総出の作業により、やっと片側だけ通行できるようになっていた。でも、道路の残り半面を建物が塞いでる状態、だったので、到着するなり倒壊した建物撤去の土木作業になった。もう一面が泥、土砂、瓦礫、倒木の山。
 作業中、倒壊した納屋の瓦礫の下、泥だらけになって埋もれた猫が出てきた。納屋を住処にしていた野良猫だという。こういう時によく聞く動物の「予知能力」。それすら間に合わないほど、事は突然訪れたのだろう。実際、土砂崩れが起こった事自体に、母屋の人々も朝まで気づかなかったという。その音も激しい雨音に掻き消されていたらしい。納屋の解体作業をしている際中、その周りを仔猫が何匹か、親を探してずっとウロウロ、チョロチョロしていた。埋もれていた死体はきっと母猫だったのだろう。仔猫はもっと沢山いたはずだ、と言うけれど、その残りの仔猫は結局見つからなかった。

 父方の実家だけでもその被害は莫大なものだった。納屋2棟を潰した箇所以外にもう1箇所、敷地内では大規模な土砂崩れが起きていた。斜面の木々をなぎ倒しながら母屋のすぐ脇まで抜けた土砂崩れだったが、僅かの差で建物への被害は無かった。
 納屋の倒壊や崖崩れ以上に損害が酷かったのは水田である。谷合を流れる川が造りだした、緩やかな幅広い河岸段丘。そこに水田は造られているのだが、その川が流域の至る所で決壊したため、水田の総面積のうち、1/3が完全に流出し、1/3が冠水してしまった。全く無事だったのは残りの1/3。
 父方の実家の水田の広さは全部で16町歩ある、という。判りにくい単位だが、判りやすく換算すると47,976.5坪、158,600平方メートル、15.86ヘクタールになる。これは東京ドーム換算で3.4個分(東京ドーム=46,755平方メートル。調べた)に相当する。なので、その2/3。実に東京ドーム2個以上の面積の水田が流出、又は冠水したことになる。そちらの復旧もこれから大変な作業になる。ただし、流出した水田は地形そのものが変わってしまっている状態だったり、膨大な量の砂利や泥や流木に覆われたりしている状態だっため、こちらは現段階では手の付けようが無かった。
 水田の最奥の川沿いの部分、河畔林に埋もれるような形で、一棟のトタン作りの小屋が半壊した状態で建っていた。元々その場所には無かった建物だという。上流から流れてきて、この場所に引っ掛かったのだ。万事がそんな感じで、水田や他の氾濫箇所は正直、見ただけで途方に暮れる状態だった。
 この損害が他と比べて大きいかどうかは、被害の全体状況が判らないので不明だ。ただ確かなのはこれより酷い所もそうでないところも無数にある、という事実だけ。後に行政による調査が行われ、具体的な話はそれから、となる。

 実感として、被害は報道内容を遥かに上回っている。当初は特にそうだった。現地の人ですら現地に立ち入れない状態が続く中でなされた当初の報道は、全国にこの被害を軽く見せてしまったかも知れない。とにかく最初の何日かは、実際の被害状況に報道が追いついていなかったのだ。
 自分が見てきたのはごく狭い範囲だが、近隣の農家や牧場。そして地域そのものが大きな被害を受けていた。崖崩れ、道路の崩落、水没した水田や畑。流失した部分は更地と化し、その中に取り残された流木がゴロンゴロンと点在している。ちょっと脇道に入ると、至る所に通行止めの看板。山間部の林道レベルの道路は壊滅したと言っても過言ではないだろう。でも、何も規制されていない道路でも走ってゆくと、その先が崩落していたりするので、表示はあまりあてにはならない。
 決壊により両端の道路が流され、橋脚とその上だけが濁流の中に取り残された橋がある。真新しい川岸のコンクリート護岸が背面から抉られ、茶色い流れの中に孤立している。背後から濁流に襲われることは想定外だっただろう。そのような水流の前には、新しい護岸だってひとたまりもない。
 その脇の泥沼と化した放牧地の中、食む草も無く競走馬が佇んでいる。水は引いていたが、前日まで濁流にのまれていたのだろう。牧柵は流木や他の流出物に埋もれてしまい、その姿は見えない。堆積物の山が線になって放牧地の周囲を囲っているので、それが牧柵だとわかる状態。流域にある牧場はどこも似たような状態になっている。交通が途断され大型車の通行が不可能になった地域の牧場では、出荷できなくなった牛乳の破棄が行われているという。牛が首だけを出して土砂に埋まっている、という話も、話だけだったが耳にした。
 交通がある程度復旧してからは、こちらの作業現場前の道路を、重機を搭載したトラック、電力会社の車、自衛隊のトラック等が次々と走ってゆくようになった。乾いた泥が土ぼこりを巻き上げ、いちいちそれを被るので、こちらは全身真っ白。
 初日、撤去作業の最中にこの地方を地盤とする国会議員が視察に来て、叔父達となにやら話をしていった。こちらを見て深々と頭を下げる。去り際には愛想よく彼と握手までして別れた叔父が、彼が去った後々までずっと悪態を吐いていた。「こっちは泥だらけなのによ、背広で来られたってネェ…」と。
 他にも時折車を停めて、現場を写真撮影してゆく者がいた。カメラはまだいい。でも、カメラ付き携帯を手に周りでパシャパシャやられるのはあまり気分が良くないものだった。

 他に感じた事は、作業の復旧にあたっている現地の人々、その顔ぶれを見ると年齢層が中高年ばかりで、自分くらいの世代の姿を殆ど見かけなかった、ということだった。いや、何人かは見かけた。官公庁、省庁、行政関係の名前が入った車に乗って時折見回りにきて、調査や記録をしてゆく人々。その中にはそういう若い世代もいた。けれどその土地の労働力としては、やはりこういう地域の特性なのか、そのくらいの世代がすっぽりと抜け落ちてしまっているような気がする。

 身近な所だけで言えば、父方の実家の人々をはじめ現地の人々は明るかった。「自然のやることだもの、しょうがないべさぁ」と。その通りである。でも本当に人々が深刻になるのはこれからだと思う。今はまだ考える暇もなく、当面の復旧に全力であたっている段階。人がガクッとくるのは、その後。これからの事をどうするか、そのことを深刻に考える段階になってから、の事になるだろう。今回被災した全ての人々にとって、これは言えることだと思う。今回の災害が切欠となってこれからの経営を続けられなくなってしまう人も、少なくはないだろう。そういう話も無数に聞いた。

 …と、いちいち書いていたらキリが無い。走り書きでここまで。
 とにかく今夏の休暇はそんな感じだった。


■2003.08.16 土

 走ってきた場所が場所だったので、自分の車もまるでラリー車のように泥だらけになっていたのだけど、昨夜は洗車もせずに帰宅していた。でも、そのままで札幌市内を走るのはさすがに恥ずかしかった(意外と人目をひいた)ので、スタンドへ入れて洗車してもらう。自分の住んでいるところには洗車するだけのスペースはない。コイン洗車場で自分で洗車してもいいのだが、そういった所の料金は大体500円。スタンドで洗車してもらったら料金は600円。100円しか差が無いのなら、洗ってもらった方が楽。でも、何をするにも金が掛かる、ってところはやはり都会だな、と思う。
 車の方は、店員にしてみれば嫌がらせかと思われかねないほど汚れまくっている状態、だったので、洗車を頼む時は「これ、洗車…いい?」と、何故か遠慮がちに訊ねる口調になってしまっていた。

 被災した父方の実家に住む叔母が、口癖のように頻繁に「なんもだぁ」という台詞を口にした。作業中にも結構人が訪れて、被害に対する見舞いや労をねぎらう言葉を述べてゆくのだけど、そういう言葉に対して真っ先に飛び出してくる台詞だ。「いやぁせっかく穂さ出てきたところなのに、ガックリでしょ」 「なんもだぁ。7割くらい補助出るべさ」 という感じで。
 「なんも」というのは、これはこちらの方言なのだろうけれど、大体は「なんでもない」「どうってことない」という意味で使われる。「悪かったね、手伝わせて」「なんもなんも」 「ごめんなさい、痛かったでしょう?」「なんもだ」という感じで。
 そしてこの言葉が持つ意味とは、大げさに言えばこの土地の人々の精神。spiritを表すものなのだと思う。また、今回のような逆境に際した場合のこの土地の人々の、その受け止め方の姿勢、人々の気質、といえるものかも知れない。
 人々はこの言葉の持つ精神の元に困難を切り抜け、助け合い、その際には自らの労をいとわず、相手には負担を感じさせないよう、そうしてこの土地での暮らしを築いていったのだ。「なんもだぁ」と。自らにこの言葉を言い聞かせながら。

 この言葉と精神は少なからず自分の中にも受け継がれているのだろう。
 もしそうなら、自分はその事を誇りに思う。


■2003.08.17 日

 思い出と現実とが、互いに傷つけ合う関係にあるとは思わない。
 現実がいくら爪を立てても、思い出を傷つけることはできない。
 得た時とは、今やこれからよりもずっと、確かな時なのだと思う。


■2003.08.18 月

 18頃に帰宅して、特にすることもない日は、それから30分くらいでジャージ姿に着替え、それから30分ほど車で走って、どちらかというと街外れにある、三日月湖に囲まれた大きな公園へ行く。北海道らしい大きな公園だ。その面積はパンフレットによると189ヘクタール。東京ドーム換算で40個…はもういいか。とにかくその面積の殆どが芝生で、その中に数十メートルくらいの高さの築山やら噴水やらオブジェやらが点在しているところ。休日の日中ともなると物凄い人が訪れるのだが、さすがにこの時間は人も疎らで、たまに芝生に犬を放している人と何人か出会うくらい。
 そこで何をしているのかというと、まぁこちらも芝を駆け回る犬と同じようなもので、体が鈍らない程度に芝の上やら公園の外周やらを走り回っている。少し前までは近所の河川敷の自転車道を走っていたのだけど、そこはどうしても人の往来が多く、あずましくなかった。今では駆け回るのはもっぱらこの公園ばかりになっている。
 特にコースや距離を決めたり、時間を計ったりはしていない。どうせ人もいないので、その189ヘクタールの広さの公園を縦横無尽に走る…というよりは、駆け回っている。そうして大体到着する19時から帰路につく20時までのおよそ1時間をそこで過ごす。築山を駆け上がると、その頂上からはこの街の夜景が見晴らせる。上を見上げると、この街にしては星の多い夜空を見ることもできる。三日月湖に囲まれているので、この時期は蛙の鳴き声も聞こえる。

 築山の上からこの街の色とりどりの、きらきら輝くガラス細工のような街明かりを見ていて、ふと何かに似ていると思った。思い出した。高速バス。その車内の、窓際の座席横にある照明に施されていた、バスが揺れる度にゆらゆらと、色を変えて煌くガラスの装飾。あの光。
 まだ車を持たなかったころ。高校を出てから就職するまでの3年間。何度この街を起点とする高速バスに乗っただろう。時にはここから地元へ帰るために。時には、ここから更に北の街へ行くために。JRよりも料金が割安なので、利用するのはいつも高速バスだった。高速バスは観光バスに似た造りで、内装も普通のバスよりもちょっとだけ豪華で、窓際の照明にはそういう装飾が施されていたのだ。そして今の自分は、そのあらゆる起点になったこの街に住んでいる。
 夜を走る高速バスに乗って、窓べりに肘をかけ頬杖ついて、車窓に映った自分の姿にもたれかかって。キラキラ揺れるそのガラスの装飾の輝きを見詰めながら、色々な事を想っていたな。何もしなくても目的地へ自分を運んでゆくその空間の中は、自分にとってずっとそういう、何かしら想う時間だったような気がする。何を想っていたのかはもう憶えていない。でも色々な事を想っていた、ということだけは、はっきりと憶えている。そういう事を想い出すと、そんな気分になるからだ。

 再び部屋に戻るのは20時半過ぎになっている。それから夕食。ジャージ姿なので外食は殆どしないけれど、途中で買い物をしてくることはある。でもその時間が時間だけに、閉店前半額の惣菜で、意外と豪華な夕食になる事も多い。それからシャワーなり風呂なりを浴び、少し雑事をすませると時間はもう23時を過ぎている。


■2003.08.30 土

 最後の最後になってようやく夏らしさが訪れた、そんな一週間だった。でも、雨降りになった昨日を境に、季節は秋へと章変わりしたのかも知れない。すうっとした肌触りの風が吹く。コスモスを揺らすのに相応しい風。
 とはいえ、外に出たのは午前中早い時間の1時間ほどで、あとは何処にも出ず、ずっと部屋の中にいた。洗濯したり本を読んだり、コーヒーを飲んだり。実際は色々と何かはしているのだけど、「何もしない」と形容される、そんな休日を過ごす。ひとり部屋の中だけで過ごす休日。そういう時間が訪れる時、それをそのまま受け入れるか、それを紛らわそうとするかは、人それぞれだろう。外の世界で揉まれてヘトヘトになって、「ただいま」という気分で、このひとりの時間に戻ってくる。そんな人にとって、この時間は「豊かな時間」。会いたい人がいたり、恋していたり。何らかの理由で、ひとりでこういう時間を過ごす事に引け目を感じたり。そういう人にとっては、この時間は何かしら、他の事で紛らわせなければならない「寂しい時間」となるのだろう。
 …だろう、と書いたけれど、そのどちらの感じ方も、まぁ自分の知っているものだ。ただ、今の自分の感じ方は前者に近く、こういう時間を自分に対して寛ぎながら過ごすことか、まぁまぁできているようだ。それはいい事だと思う。

  << 2003.06   diary index.